ぶうたれオヤジの日記

ここはYouTube画像はiframe直リンク不可なので、文章主体にします。

スズメ天国(17)♪

 昨日撮った写真であるが ↑ トレイから水を飲んでいる右側の写真ではカラスは右眼を大きく見開いて上向きにしている。ということは顔の左半面の多くは水面に没しているということになる。つまり以前引用した本に書かれていた通り、カラスは顔を傾けて水面に入れ、一旦水を口中に注ぎ込んでから顔を上に向けないと水を飲めないのである。
 それにしても、「おもいでの森」の内側には天守閣の城壁を囲む大きなお堀があるし、反対側「桃園」の外側には第二寝屋川が流れているというのに、鳥たちはそこで「水」を得ようとはしないのはどういうわけだろうか。水辺に小さな「浜」でもないとそこでは遊びにくいということだろうか。私たちの餌場を更に西へ行ったところには石造りの小さな池(砲台跡?)があるがその水は流水ではなく汚い溜り水なので利用する鳥は殆どいないということである。(←これには異説もある。いやいや利用されていますよ♪というのである。)私たちの餌場近辺にも適当な水場が見当たらないので、鳩も雀も、カラスまでもが私たちの臨時の「仮設トレイ水場」を利用するのである。

*今日の大阪は午後から大雨・洪水の恐れがあるという予報で、朝の雲行きも今にも降り出しそうな雰囲気だったから、思い切って餌蒔きは中止にした。8月は殆ど休まなかったのでたまには休養をとるのもいいかと思うが、中止を決めて餌やトレイなどの「餌蒔き七つ道具」を持たずに出掛けた直後、空はカンカン照りになったのだから皮肉なものである。w

*さてコメ主体の給餌であるが、コメは先日1kg50円の例のくず米をまた3kg買い足した。この安いくず米には私は150円ずつ2回支払っただけなのでなんだか申し訳なくて、おまけとして私の撮った現場の写真を3枚差し上げた。店の人は写真に見とれて代金を受け取ることを忘れていた。笑。O氏はコメはコメとして鳩と雀たちに向けて草地に蒔き、「小鳥のエサ」は単独で手のひらに乗っけて「手乗り」用に使っているが、私はコメと「小鳥のエサ」をブレンドして周囲のあちこちにばら蒔いていることは以前述べた通りである。米よりも800g\198の「小鳥のエサ」の方が遥かに高い。
 このくず米であるが、コンプレッサーで弾き飛ばされ分類されているのは一種類ではなく「どれにする?」と問われて私は戸惑い「前回と同じでいい」と答えたのだが、渡されたのは「割れてはいないが小粒過ぎるくず米」2kgと「色で分類されたくず米」1kgのミックスだった。どちらも前回分けて貰った「全粒米も割れたコメも玄米も麦も、虫や虫の卵もなんでも入っているくず米」ではなかった。「色」で識別された屑米には黒い粒子が混じっていたがそれは草の実だということだった。

*からすにごみを荒らされてお困りのときは [2010年6月30日]

大阪市では、からすによるごみの散乱被害防止のためにからすネットを貸し出します

からすによるごみの散乱被害を防止するため、大阪市が収集するごみの持ち出し場所(概ね5世帯以上で利用されている場所)に、からすネット(防鳥ネット)を無償で貸し出します。

平成20年度は、随時受け付けますので、ご希望の方は、申請書をお住まいの地域を担当する各環境事業センターへ提出してください。

*私は大阪市立中央図書館で『大阪城公園の生き物たち』とかいう本をパラパラ読んでみたが、そこにはカラスやハトやスズメに関する記述は見当たらなかった。大阪城公園に行ってまず一番目につくのはカラスとハトなのだが彼らは無視・黙殺されているのである。
cf.大阪城公園鳥だより

*「個々次々に生まれては死滅して行く我々生命の個体は実は《DNAの乗り物》に過ぎない」という理論が脚光を浴び、大騒ぎになったのはいつのことだったろ うか。ちょっと気になって《DNAの乗り物》をグーグルで検索してみたが、新しいデータが上位にはなかったので、この理論の現状はどういう進展を見せてい るのかは私にはわからなかった。気にかかったのはどこかにあった「遺伝子が利己的だから我々個体も利己的で当然だ」という文面である。個々の生死にのみ 拘っている限り「利己」「排他」からの脱却は凡そ望むべくもないから、この「自己への拘泥」=「利己からの脱却」こそが「未来」や「子孫の繁栄」への期待 と熱望、或いは「宗教」や「神話」へと我々を一気に駆り立てる動機付けになっているとするものである。更に言えば、我が国は今近隣のロシアとも韓国とも中 国とも『領土問題』を抱え込んでいる現況であるが、『国家』なるものが『利己的個人の集合体』に過ぎないものであるとしたならば、「『領土問題の平和的解 決』などということが一体可能なことだろうか?」という疑いもまた容易に醸成されて来るのである。歴史は「領土は力のある方が取る」ものであることを示し ているからである。個体の視点から世界を見る限り、我々は偶然この世に生を受け、或る日必然的に死んで行く。「死期を悟る」ことは個々可能であるとして も、自分が死ぬ瞬間を自分で決めることは自殺以外には不可能である。文学で言えば『死霊』の主人公・三輪与志は病床の兄高志に向かって「人間が自分の意思 で出来ることは昔から二つしかありません」と断言して「自殺」と「子供を生まない」ことの二つを挙げている。作者の埴谷雄高は私生活でも夫人に何度も堕胎 を強要し、夫人からはその度に「それなら何故あなたは私をお貰いになったのですか?」と詰られ続けたものだと生前自分で述懐していた。埴谷は「自分は亡き 妻に対しては終始暴君=スターリニストとして振舞った」のだと自認していたのである。・・というわけで、世間は恒例『お盆休みの一斉休暇=民族大移動』の 真っ只中であるから、私も人間の生死について少しだけ考えてみた。

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以下は「遺伝子の乗り物」をグーグルで検索し、出て来た順番通り5つまで並べたものである。

Ⅰ.ウィキペディア利己的遺伝子。

Ⅱ.DNAの乗り物

 分子の結合により生命が偶然できる確率は、全宇宙の海から一本の針をさがすよりもありえないことだ。しかし私達はここにいる。しかし、完全ではない。生命の存続は不安定な状態の維持にかかっている。それはたえず、応急修理をほどこし、数限りなく部品を交換することによってやっと旅を続けられる車みたいなものである。

 私達の体の細胞は常に新陳代謝によって交換されていくが、三ヶ月でほぼすべての細胞が入れ替わる。言ってみれば、三ヶ月前の個人とはまったくの別人になってしまっているといっていい。人はこれを一生のうちに一五〇回から二百回も繰り返すのだ。

 理論的には遺伝子は五〇億年以上も存在できるという。DNAに限界があるとすれば、いかなる状況下でも生存できる乗り物を設計できる才能に限界があるときだ。

 この遺伝子を意識のあるものとは考えられない。彼らには私達についての知識も、彼ら相互の知識もない。進化に関与してる自覚もなければ、将来の発展の為に計画を立てたり、夢を見たりすることもない。ただ存在するだけなのだ。

 私達の身も心も彼らが作った。彼らを保存することが、私達の究極目的ともいえる。鶏は次の卵を作る手段にすぎない。サルは木の上で遺伝子を保存する乗り物にすぎない。魚は水の中で、保存するタクシーにすぎない。

 遺伝子は、ある意味で個人の存在を全く認めていない節がある。冗談じゃない。私達は占領されているのか?しかし、この証拠は強力だ、私達は死ぬが、遺伝子は死なない。老いる事すらなく、どんな環境にも合わせ乗り物を設計していく。進化と言う名のもとに古い乗り物は乗り捨てられ腐っていくが、遺伝子そのものは部品を交換してまた新しい乗り物にのって先にいく。

 しかし、それでいいのだろう。私達は死ぬかわりに自由な意志を与えられたのだから。昔から人は−永遠の生命を求めた。しかしいつの世でも出される結論は一つだ。「限りある命だから尊い」、そこに愛や優しさも生まれるのだと。

Ⅲ.YouTube動画。
DNAの乗り物
⇒:「私たちの肉体はDNAの乗り物です エハン・デラヴィ」参照。

Ⅳ.やさしいバイオテクノロジー

利己的な遺伝子<< 作成日時 : 2006/05/19 19:17 >>

このコラムは、ドーキンスの「利己的な遺伝子」の解説ではありません。念のため。
遺伝子・DNAにとっては、ただひたすらコピーをとることにのみ関心があり、全エネルギーをコピーすることに注いでいる、といった考えがある。
38億年前、最初に生命が誕生したとき、自己複製が可能な遺伝子DNAが誕生したものと思われる。最初に誕生して以来、現在に至るまでただひたすらコピーがとられている。初期のころは、コピーが完全ではなく、また修復機構もなかったため、不完全なコピーや重複など、あらゆる変異体コピーがとられたものと思われる。この不完全なコピーを繰り返すことにより、多様な生物が進化していったわけでもある。
生物は生物からしか生み出せない。したがって、現在地球上に存在する生物にはすべて親がいる。親のいない生物は存在しない。その親にもさらに親が必ず存在する。現在存在する生物がすべて子をなすわけではないので、将来すべての生物のコピーがとられるわけではないが、すべての生物は親のコピーである。

すべての生物は個体レベルで見ればかならず死ぬ。生物個体で見れば生命は不連続に見えるが、目を個体ではなくDNA分子に向けてみた場合、細胞分裂にしても減数分裂・受精にしても同じようにコピーをとっているだけである。

DNAにとって、生物個体はたんにDNAの乗り物に過ぎないとの考えもある。多様なDNAがコピーされるのに都合のいい様に多様な乗り物を利用している。乗り物はコピーをとるのに安全かつ多量にとれるものがより優れていることになる。自分のDNAコピーをとるのにより都合のいい乗り物を作るように進化していったとも考えられる。

すなわち、あらゆる突然変異体の中から、その環境に最も適した個体が生き残り、あるいは最も多産な個体が生き残り、つまり、DNAのコピーをとるということに最も都合のいい個体が淘汰されて生き残ることにより、DNAにとってはより多くのコピーが残せることになる。

DNAレベルで言えば、親から子への個体の移動があってもDNA分子の連続性は保たれており、ただひたすらコピーがとられたことになる。すなわち、現在地球上に存在する生物のDNAはすべて親世代の連続したコピーであり、親世代にどんどんさかのぼっていくと、すべての地球上に現在存在している生物の親は最初に生命が誕生したとこにまで収束してしまうことになる。

ここに、新しい宗教の誕生が考えられる。人類だけか皆兄弟なのでなく、利己的なDNAの観点から見れば、地球上の生物すべてが兄弟になる。しかも個体のレベルでの死を考えず、利己的なDNAのレベルで生命を考えたならば、連続してコピーがとれるのであることから、永遠の生命を獲得することも可能となる。部分的なコピーでいいのであれば、直系の子孫である必要はなく、家族の子孫もコピーであると考えるならば、かなり広範囲に生命の継続が可能となる。生物愛、永遠の命をキーに新しい「利己的DNA教」もしくは一般受けしやすい「遺伝子教」を誕生させることも可能かと思われる。

人類愛に限定することもなく、死をも畏れることもない、普遍的な宗教を作ることができるであろう。

ヒトは必ず死ぬことで幸福にはなれない。これは避けられない宿命である。

ヒトを含め、すべての生物はいずれ必ず死ぬ。この死ぬという事実を前にするなら、人間社会でいかなる革命を起こそうともいかなる業績を残そうとも、歴史に名前が残ったとしてもその本人の個体は死んでしまった後ではその後を体験することはできない。生は有限であり、死後の連続性はない。

しかし、DNAは、あるいは遺伝子は死後も連続している。
38億年間、連綿と生き続けている。

Ⅴ.利己的な遺伝子とは何か
中原英臣・佐川峻 著
ブルーバックスB-890(講談社

まえがき

中国の古典「韓非子」は、マキャベリの「君子論」の東洋版と言われているが、そこに流れる中心課題は「人間は利己的である」という永遠の真理である。キリスト教における原罪、仏教における我欲といった思想も、明らかに人間が利己的であることを認めている。

本書の目的は、ドーキンスがどのような権謀術数によって、今までの進化論を乗り越えたかについて、わかりやすく解説することである。それと同時に、遺伝子が少しでも自分自身を増やすために行っている権謀術数がいかにすごいものであるか、知ってもらいたいと思っている。

ただ、筆者たちはドーキンス利己的な遺伝子に対して全面的に賛成するつもりはない。しかし、現代進化論「韓非子」ともいえる「利己的な遺伝子」は、驚くほど魅力的に輝きを放っている。そこでわれわれも、ほんの少しばかり権謀術数を用いることにする。それは、自分自身がドーキンスになったつもりで、筆を進めることにする。

利己的な遺伝子説はダーウィン

19世紀の偉大な科学者チャールズ・ダーウィンをぬきにして、進化論を語ることはできない。ダーウィン進化論をぬきにして、この本の目的であるドーキンスの利己的遺伝子について語ることはできない。

なぜなら、ドーキンスは、その著「利己的な遺伝子」の1989年版の前書きの中で、
利己的な遺伝子説はダーウィンの説である。それを、ダーウィン自身は実際に選ばなかったやりかたで表現したものであるが、その妥当性をダーウィンは直ちに認め、大喜びしたと私は思いたい。事実それは、オーソドックなネオ・ダーウィニズムの理論的な発展であり、ただ目新しいイメージで表現されているだけなのだ。」と、はっきり述べている。

ダーウィンの進化論を簡単に要約してみよう。一般的に言うと、生物は、生き残って子孫を作る個体の数よりももっと多くの子供を作る。そのため、生まれてきた子供の間には厳しい生存競争が起こる。しかし、生まれる個体の中には変異を伴ったものがいる。ダーウィンは、こうして生まれる個体差、あるいは個体変異を重視したのである。

個体の変異は、生存競争の中で有利に働くことがある。その結果、有利な変異を起こした変種は、そうでない個体よりも生き残る可能性がほんのわずか高くなる。こうしたプロセスが何世代、何万世代という長い間繰り返されることによって、その変種が、その種の中で多数を占めるようになる。こうして新しい種が誕生すると言うわけである。

利己的遺伝子への道

1.ハミルトンの血縁進化説

肉親同士はお互いに強い絆で結ばれていることは人類共通の事実である。親と子はそのさいたるもので、親たるもの、我が子のためならば自分の命を捨てることさえある。

イギリスの生物学者、W・D・ハミルトンは、この問題を遺伝子の観点からとらえた。

彼は1964年に「社会的行動の遺伝的進化」という論文を発表して、その数学的定式化を試みた。ハミルトンの説を要約すれば、「血縁者を助ける行動を引き起こすような遺伝子は、淘汰上、有利であり、個体群内で広がる傾向が強い」と言うことになる。

つまり、血縁利他的主義が動物界で普遍的に見られるのは、すべての動物がそのような行動を起こす遺伝子を持っているからである。このような遺伝子は、最初は少なくても、長い淘汰の間に、そうでない遺伝子をおしのけ、個体群内で、広がり、遂に、全面的勝利を収めるというわけである。

ここで注意したいのは、ダーウィン進化論と違い、淘汰上有利なのは個体でなく、遺伝子だとハミルトンが述べていることである。

自分を犠牲にして、血縁を助ける利他的行動は、少なくともそれを行う個体にとって損失以外の何物でもないが、その個体の遺伝子から見ると、利他的行動は得になると言うことである。したがって、個体が行っている利他的な行動というものは、実は遺伝子にとっては利己的な行動ということになる。

遺伝子は、他の個体よりも自分とよく似た遺伝子を持った個体、すなわち血縁である個体が危険になったら、自分を犠牲にしても助けることによって、自分に近い遺伝子群を集団的に防衛するということである。

ハミルトンは、血縁を助ける遺伝子というものを考えた。その遺伝子は、自分と同じ遺伝子を持っている可能性の高い血縁者を助けることによって、その遺伝子をたくさん残そうとしているのである。そのためには、遺伝子は、時として自分の乗っている個体を犠牲にすることさえする。遺伝子にとっては、自分が入っている個体を犠牲にしても、自分自身の遺伝子の繁栄からみれば、その方が得策だからである。

2.ドーキンス利己的な遺伝子

 ドーキンスは1976年、「The Selfish Gene」という本を出版し、その中で、利己的な遺伝子という概念を世に問うたのである。その彼のアイデアは二つの柱からなる。

遺伝子は究極のところ、自分自身を増やそうとする行動のプログラムであること。そして、もう一つは、生物は、そのプログラムを実現するための器、もしくは乗り物にすぎないということである。

ドーキンスの利己的遺伝子は、ハミルトンの血縁淘汰をもう一歩前に進め、普遍化したものである。つまり、ドーキンスの考え方によれば、一見したところ、どんな犠牲的な行動、利他的な行動も、遺伝子にとっては利己的で合理的な振る舞いでしかないということである。

3.スミスとゲーム理論

ドーキンスによれば、遺伝子は徹底的に利己的であり、自分を繁殖させることが至上の目的のようである。もしそうなれば、遺伝子は、自然界で演じられる「生き残り・増殖ゲーム」のプロフェッショナルだということになる。だから、遺伝子による行動を遺伝子のゲームと見なすと、生き残りのための最適な戦略が駆使されていると、想像することができる。

イギリスの生物学者メイナード・スミスは、このような観点から、遺伝子による行動にゲームの理論を適用してみた。彼が提唱したもっとも重要な概念は「進化的な安定な戦略」(evolutionally stable strategy)(ESS)である。ESSの最も簡単な例は、有名な「タカ・ハトゲーム」である。

生物は遺伝子の乗り物である

生物が親から子へと受け継いでいくのは遺伝子である。個体は寿命が来ればあっけなくこの世を去るが、遺伝子は子孫に受け継がれていくのだから不滅であるといえるだろう。

個体は、この不滅の遺伝子の乗り物にすぎない。生き残ろうとしているのは、個体ではなく遺伝子なのである。そこでドーキンスは遺伝子のことを、自己複製子と名付けている。

ドーキンスによれば、自然淘汰とは、この自己複製子が個体という姿を借りて行う生き残りゲームである。ゲームをうまくやれる自己複製子は自分のコピーをたくさん残せるので、増殖することができる。うまくやれない遺伝子は滅びる。

遺伝子とは文字通り、生物が親から子へと性質や形を伝えるためのものである。今では、遺伝子はDNAという化学物質であることがわかっている。DNAを構成している塩基の並び方により、いろいろな遺伝情報が保持されている。

しかし、遺伝子の働きは、これにとどまらない。遺伝情報を保持する遺伝子は構造遺伝子と呼ばれているが、その遺伝情報を実際の形質として発現させる途中で、調節遺伝子などが働く。調節遺伝子とは、遺伝暗号の発現を抑えたり促進したりといった調節を行う遺伝子である。さらに最近、ホメオティック遺伝子という遺伝子が発見されて話題となっている。

ここ10年間ほどの間に、遺伝子は遺伝のみならず分化(器官形成)の面でも重要な働きをすることが明らかになった。では、個体の形質のみならず行動までも支配しているのであろうか。

ドーキンスによれば、個体は遺伝子の単なる乗り物なのであるから、もちろん、行動もその支配下にあるということになる。

ハミルトンやドーキンスは、現在、ある生物が存在しているのは、その生物の遺伝子が自然淘汰で生き残ったからだと主張する。

しかも、その遺伝子の目的はただ一つ、これからも生き残ろうとすることである。

こで決定的に重要なことは、遺伝子の目的は唯一、自分自身が生き残ることであって、単なる乗り物にすぎなり個体の生き残りではないということだ。

このことから、ドーキンスの主張する「自己犠牲」という行動の合理的解釈が生まれてくる。簡単にいうと、個体の自己犠牲的行動とは、あるグループの遺伝子(自分のコピーもしくは血縁)が自分たち全体の利益を計るために分乗しているある乗り物を、犠牲にすることに他ならない。つまり、全体のための部分犠牲である。

「個体は遺伝子の乗り物」、「自己犠牲」につづく、ドーキンスの第3のモチーフ、「延長された表現型」とうい概念がある。ドーキンスはこの概念を、「遺伝的遠隔作用」とも表現している。

遺伝子は自分の生き残りのために個体どころか、種を越えて、他の生き物をコントロールする場合がある。これを、延長された表現型としている。

利己的な遺伝子からミーム

1. 親子の絆も遺伝子が決める

ドーキンスによると、遺伝子には自分自身を保存するという至高の目的があり、動物の個体はそのための機械のようなものであるということになる。こうした視点に立ってみると、親子の関係も、今までとはかなり違ったものになってしまう。

親が子供を育てるという行為も、単に親子の愛情などでなく、親と子供の間における利己的な遺伝子の戦いの場であるという見方が必要になってくる。

2. 男女の愛も遺伝子が支配

自然界における動物の行動、特に求愛行動に関する多くの観察によって、交尾の相手になるメスを巡るオス同士の争いや、メスが、自分の愛のパートナーになるオスを巧妙に選んでいることがわかりはじめている。

オスの精子は大量に生産されるのに、メスが作る卵子は栄養分を必要とするために、どうしても少ししか作られないことになっている。オスは次々にメスを見つけて交尾をすれば、自分の子孫をいくらでも作ることができる。それに対して、メスは、いくら交尾を繰り返しても、増やすことのできる自分自身の子供の数には限りがある。

ところが、オスにはいくらでも繁殖のチャンスがあるといっても実際にパートナーになるメスの数に制限がある。そのため、オスにとってメスは、自分の子孫を増やすための貴重な資源になるわけである。こうしたことから、オス同士がメスを巡って争うことになるのである。

何といっても、一生の間にメスが生むことのできる子供の数は少ない。そのためにメスは、自分の子供に対してより多くの利益を与えてくれるオスを選ぶことになる。オスを選ぶ権利がメスにあることは、こうして説明できる。

ドーキンスは、動物達の求愛行動に基づき、人間の男女関係をも考察している。人間の男性には家庭第一タイプと浮気タイプがいるが、洋の東西を問わずほとんどの女性は、相手の男性が将来にわたって誠実さを守る約束をしない限り、なかなか結婚に踏み切らないようである。

このことは、女性がたくましいオスを選ぶよりも、家庭第一のオスを選ぶという戦略を採用していることを示唆している。

人間社会では、多少の例外はあっても、一夫一妻をとっている。一部の女性から反論はあるにしても、子育てについては、男女間に大きな不平等は存在しないものと思われる。確かに母親は、父親よりも直接的に子供の世話をすることが多いかもしれなしが、父親は子育てに必要な物質的な資源を手に入れるために、間接的な役割を分担しているのである。

それでも、男性には浮気っぽい乱婚的な傾向があり、女性には一夫一妻を維持しようという保守的な傾向が認められる。最も人間の場合、動物よりもはるかに伝統や文化といったものに左右されるかもしれないが、やはり、メスは自分の卵子を大切にするという進化論的な説明が当てはまりそうだ。

3. 文化的伝達の単位「ミーム

衣服や食物の様式、儀式、習慣、芸術、建築、技術、工芸、これらすべては、歴史を通じてあたかもきわめて速度の速い遺伝的進化のような様式で進化するが、もちろん実際には遺伝的進化などとは全く関係がない。しかし、遺伝的進化と同様、文化的な変化も進歩的であり得る。

ドーキンスは、遺伝的進化と文化的進化のいくつかの類似性を指摘した上で、生命が誕生した30億年も昔から地球上に存在した遺伝子という自己複製子のほかに、最近では新しいタイプの自己複製子が登場していると考える。しかも、この新種の自己複製子は、まだまだ未発達であるが、現在かなりのスピードで進化しつつあるというのである。

ドーキンスは、この新しく登場した自己複製子である文化的伝達にも、遺伝子と同じように何らかの名前を付ける必要があるという。文化的な伝達の単位というか、あるいは模倣の単位となるような新しい言葉が必要であるというのである。

ドーキンスは、ギリシャ語で模倣という意味の単語「mimeme」であることから、新しい文化的遺伝の単位を「meme(ミーム)」と命名した。「ミーム」という単語は、遺伝子を意味する「gene(ジーン)」とも発音が似ているというわけである。

遺伝子が精子卵子によって生物の個体から個体へと運ばれるように、ミームは模倣というプロセスを介して脳から脳へと伝えられていく。

遺伝子とミームを比較してみると、まず第一に、ミームは遺伝子よりも伝達のスピードが遙かに速いという特徴がある。遺伝子の場合、その情報は親から子供に伝達される。そのために、遺伝子は一回伝達されるのに、どうしても一世代がかかってしまう。それに対してミームは、世代とはまったく関係なく、多くの脳の中に伝達できるのである。

ミームの第二の特徴は、遺伝子が親から子という血縁同士にしか伝わらないのに、ミームでは、群の個体同士なら血縁とは関係なく伝達されることである。そのため、ミームは時間的だけでなく、集団的にも遺伝子よりずっと多くの個体間に広がることができる。

最後に、ミームの場合、遺伝子よりもコピーミスが多いという特徴がある。そのため、ミームによって伝達される文化的遺伝の方が変化するチャンスが増えることになる。

こうした特徴から考えると、遺伝的進化よりも文化的進化の方が、将来的には大きな可能性を秘めているのかもしれない。

4. 神も遺伝子がつくった?

我々の祖先は、太古の昔から時間と空間という概念に気がついていたようである。時間と空間という概念を持ち、未来や過去という意識に目覚めると、死後という未来の世界や歴史という過去の世界が気になり始める。そうなると、まず自分たち人間の祖先について知りたくなり、死んだ後に何があるのかという疑問をもつのは当然のことである。

さらに、空間という概念からは、空や海の彼方に何があるのかということに興味を示すようになる。輝く太陽や夜空の星の動きが気になり、地球上に生きている動物や植物にも目がいくようになる。

神話というのは、人類がそうした自然、生命、宇宙といった不思議なことについて説明するために誕生したと考えられる。ギリシャ神話に出てくる神と星座の関係は、まだまだ何もわからないわれわれの祖先が残した宇宙論だったのかもしれない。また、死後の世界についても、天国や地獄というように、それは宇宙と密接な関わりを持っているのである。

そして、多くの神話にもっとも共通しているものが民族の誕生である。どの神話でも、神によって創られた人間という設定は変わらない。民族の誕生が神の手による産物であるという説明は、今から思うと進化論の第一歩であるといえそうである。

こうして作られたいろいろな民族の神話に共通性がみられることは、人間の脳の中にミームが存在していることの証明のような気がする。

神の姿は絶対に見えないし、神の声も決して聞くことができない。ドーキンスは、こうした神の誕生にもミームが深く関わっているという。神は人間という動物の脳の中にだけ存在するもので、それは非常に強い伝達能力をもったミームという状態で実存しているというのである。

神のミームというものは、血縁を越えた多くの人たちの心をまとめることのできる力をもっている。ほとんどすべての人間の心の中には、神のミームを何らかの形で受け入れる用意がされているようだ。人口が増加し人間社会が巨大化すると、やがて神というミームは、民族単位の神話から世界的規模の宗教へと進化する。

宗教というミームは、信仰によって成立している。信仰が盲信へと進むと、すべてのことを正当化できるようになる。ある人が別の神を信じる異教徒なら、盲信はその異教徒に死刑さえ宣告することができる。盲信というミームは、あらゆる手段で人の心の中に増殖していくものである。困ったことに、盲信というのは、宗教的な盲信だけとは限らない。政治的な盲信や文化的な盲信があり、こうした盲信にも同じようなミームが存在するのである。

人間が持っている生物学的な形質はすべて遺伝子によって子孫に伝えられる。生物としての人類の未来は、遺伝子に支配されているというわけである。しかし、そうした人間が作り上げた社会や分化を子孫に伝えられるものは、遺伝子でなく脳なのである。

ただひたすら増え続けようとする遺伝子と、少なくとも未来に対するビジョンを持つことのできる脳の争いが、ドーキンスにいうように、人間の脳の勝利に終わることを心から期待したいものである。

最後に

私たちには、私たちを生み出した利己的遺伝子に反抗し、さらにもし必要なら私たちを教化した利己的なミームにも反抗する力がある。純粋で、私欲のない利他主義は、自然界には安住の地のない、そして世界の全史を通じてかつて存在したためしのないものである。しかし私たちは、それを計画的に育成し、教育する方法を論じることさえできるのだ。我々遺伝子機械として組み立てられ、ミーム機械として教化させてきた。しかし我々には、これらの創造者にはむかう力がある。この地上で、唯一我々だけが、利己的な自己複製子達の専制支配に反逆できるのである。

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cf.埴谷雄高死霊(しれい)』。
cf.『松岡正剛の千夜千冊『不合理ゆえに吾信ず』。
cf.DNA