ぶうたれオヤジの日記

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スズメ天国(36)♪


 ↑ 写真は昨日のもの。今日も私は一生懸命にスズメたちが少しでも多く食べられるよう力を込めてコメを投げたのだが、彼らはどうしてもハトたちによって徐々に遠くへ遠くへと押しやられてしまう。一度などは、ハトたちは一斉にその場でジャンプして、驚いたスズメちゃんらが樹上に逃げた隙を狙って辺り一面を占領してしまった。外回りにいるだけでも鬱陶しいと言うのである!その仕打ちには流石の私も腹が立って、周囲のハトらをまとめて蹴散らし追い払ってやった。そんなことをしてもスズメたちは舞い降りて来ないし、ハトはじきにすぐ戻って来るのだが・・。スズメたちの数が減少気味なので余計分が悪いようだ。

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 最近私は餌播きに忙しくて「釜」(あいりん地区)の方へは行っていないので近況はわからないが、以前「我々はハトと同じだ」が口癖のおじさんがいた。「ネズミと言うと怒る人がいるからハトだ」と笑っていた。「狭い区域をあちこちうろうろして餌のあるところをほっつき歩く。これがハトでなくて何か?」と、そういう言い方だった。釜周辺にいればあちこちで毎日「炊き出し」があるから金がなくても飢え死にする心配はない。そういう人に対し「人間としての尊厳はないのか?!」などと問い質しても笑われるだけだ。
 深夜〜早朝にかけてコンビニやマクドミスド等の各店では期限切れの食品をゴミにして出す。まだ食べられるものを捨てるのである。これもGDPのうちだ。専属の「回収車」が来る直前に出された「ゴミ」には、それを待ちかねた「拾い屋」さんが群がる。この店は誰、あの店は誰と縄張りが決まっているそうだ。拾った期限切れ食品は一律(一個または二個)百円でセンター前で売られる。夏場の食べ物は総じて痛みが激しいのだが人気の品は早朝に売り切れる。いつまでも売れ残っている「生もの」は流石にアブナイと思う。それはいいとして、我々人間も「早朝生ごみを漁るカラス」と似たようなことをしているのである。w

 私がまだ若かった1960年代後半から1970年代初頭にかけて「労働と遊びの一致」などというフレーズが流行ったことがあった。「3つのM」即ちマルクス毛沢東マルクーゼが(一部で?)賞賛された時代である。人類(霊長類)は労働と遊びを分離して発展を遂げた。それをまた一致させようというムーブメントがあった。
 動物界は一般に労働も遊びも同じ不可分の生命活動である。スズメちゃんで言えば「食」と「住」のために彼らは日々活動し、それが労働であり遊びであって全てである。彼らにとって食べることは必要労働であり同時に楽しい遊びでもある。無論これは仮借なき「生存闘争」でもある。1つしかない餌をAが食べればBは食べられないからだ。
cf.松岡正剛の千夜千冊・『エロス的文明』ハーバート・マルクーゼ

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 今日は公園内「森」での餌播きは消化不良気味だったが、寝屋川沿い二箇所の餌播きはスズメさんたちもよく食べてくれて溜飲が下がったというか、気分良く今日の日程は終えられた。時刻はまだ11時を回ったところだった。そこで私は、空は曇りがちで涼しいことでもあるし、先日船員さんに教えられた淀川の野鳥観察コースを下見に行く気になった。どこから河川敷に入ろうかと思ったが、豊里大橋から下って来た方が体は楽ではないかと考え、途中千林で300円弁当も仕入れて、豊里大橋の少し下から河川敷に上がったのである。淀川河川敷は初めての経験だったこともあってなかなか思い通りには行かなかったが、一応「毛馬こうもん」〜「毛馬水門」を通って「毛馬橋」から通常のルートに戻った。

 成果はどうだったか。
 鳥ではハトとスズメとカラスしか目撃できなかった。あちゃ。というか、他にもいたのだが、双眼鏡でもないことには私の視力では如何ともならなかった。
 ヌートリアは一匹見た。水面をスイスイ泳いでいたから、ちょっと遠かったが写真を3枚撮った。「ああっ、webの図鑑と同じだ!」と思った。
 あと、あちこちで餌やりはした。こちらのスーさんたちは食パン・蒸しパンやケーキ系には食いついて来るのだが、コメ・穀物には反応が鈍かった。慣れていないのだろう。ハトに殆ど食べられてしまったポイントもあった。