ぶうたれオヤジの日記

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吉本平面にZ軸を♪

 吉本隆明著『言語にとって美とは何か(略称言・美)』は楽天ブックスとかにもあると思ったが、今探したら無かった!が、アマゾンには2冊あった。w

 角川文庫からも出ている。まだの人には是非ともお勧めしたい文学論の著書である。この本の中で展開されている『吉本節』は小説等文学作品に限らず音楽や映画にも充分応用の効く優れた著作だと私は思っている。

 それでどういう内容かというと、元々は理系の出身である著者が書いた本であるから、X軸Y軸の平面座標に各文学書を配置してしまうことを彼は提案しているのである。この提案が画期的かどうか私は知らないが、私の出会った初めての文学論だった。彼は生涯を通して実にいろんなことをやらかしてくれた人で(笑)私は何もかも彼の主張に同意する人間ではないが、私が大きな影響を受けた人間の一人であることに間違い無い。詳しいことは冒頭にリンクしたウィキペディアへ行けば(有難いことに)相当詳しく書いてくれている。w

 それで、吉本の設定はあくまで『平面座標』なので、これにもう一つZ座標を加えたら立派な(かどうか?)『空間座標』になるのではないかというのが今回の私の提案である。
 で、そのZ軸には何を持って来るのかというと、私の考えでは『世界性』がいいのではないか。w

 ここに『世界性』とは『社会性』と言い換えてもいいし或いは『翻訳可能性』でもいい。『他言語化への可能性』でもオッケーだ。私はこれらを全部ひっくるめて『世界性』と仮に名付けたのである。吉本が苦手としていた『他言語化』もしくは『多言語化』への挑戦である。
 考えてみて欲しいのは、吉本が「この二人さえ読んでいれば用は足りる」とした両村上(即ち村上春樹村上龍)にしても欧米で広く読まれているのである。

「この小説は是非母国の人間にも読ませたい!」と切望する多くの人たち(ガイジンさんたち)の存在があってこその『世界性』獲得なのである。これはマンガでもポップスでも同様と思われる。あの大江健三郎にしても世界各国語に翻訳されたからこそ、『ノーベル文学賞受賞』まで漕ぎ着き得たのである。

 英米の覇権が長期に亘っている歴史的関係で今『世界語』と呼べる言語は英語しかない。スペイン語でもフランス語でもロシア語でも中国語でもなく英語なのである。学者が拵えたエスペラント語などは、政治も経済も何も絡んで来ない「学術的」「趣味的」サークルの言語でしかない。いったいどれだけの人間がこのエスペラント語を日常使って生活しているのか? 公用語としている国は一つもないということであるから、そんな人間はもしいたとしても一種の奇人変人でしかない。
 M・フーコーの『言葉と物』(1966年)の日本語への翻訳に5年以上もかかったように、詩的イマージュや暗喩に富んだ著述はことほど左様にプロの翻訳家・学者先生方でも翻訳が難しいのである。私にしても英語の俳句などを見るにつけ「どうしてこんなのが俳句なの?」といつも思っていた。w
 ということで、翻訳可能かどうか知らないが、私たちも平素からガイジンさんに良くわかる日本語を使いたいものである。w

 では、文字による文学作品とは少し離れた『漫画』の世界性はどうだろう?

 日本出自の漫画もまた世界で広く読まれているらしい。東大仏文を7年かけて卒業した昔の知人は(彼こそ変人・奇人の好例だったが)「日本に生まれて良かった。何故なら少女漫画があるからだ♪」と平素口癖のように言っていた。当時の彼のお勧めは萩尾望都だった。彼女は私たちと同年齢だったのである。私も漫画は手塚治虫以下、赤塚不二夫藤子不二雄石森章太郎から真崎・守まで結構読んでいるが、少女漫画は彼から薦められて初めて読んだ。大阪へ来てからもこれは少女漫画ではないが『ハンターvsハンター』他少女漫画の幾つかを、WEBで知り合った女子中学生から薦められて一時期熱心に読んでいた。それらの漫画のうちどれ程が外国に持って行っても通用するのかは私の判断の域を超えているが、何の根拠もなくあてずっぽで推理すれば、多分その『世界性』はかなりのハイレベルにあるのではないだろうか。