ぶうたれオヤジの日記

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唯一の被爆国、日本。

横浜は原爆投下候補地だった

横浜は太平洋戦争中、米軍の原爆投下候補地だった──この話は、初めて聞く人にはショッキングだろうか。しかし、これは歴史的事実である。
 


日本は唯一の被爆国である


第二次世界大戦中、敵対する枢軸国原子爆弾を開発する可能性を恐れたアメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトは1942(昭和17)年、原子爆弾開発プロジェクトを極秘裏にスタートした。

本部がニューヨーク・マンハッタンに置かれたため「マンハッタン計画」と命名されたこの秘密国家事業は多くの科学者・技術者そして20億ドルの巨費を飲み込み、最終的に広島・長崎の惨禍(さんか)を生み出した。
 


広島の原爆ドーム
 

ヤルタ会談にて。前列左からチャーチルルーズベルトスターリン


なぜ投下目標地として広島・長崎が選ばれたかに関してはすでに重要資料が公開されており、初期の段階では横浜市も候補に挙げられていたことが判明している。

今井清一『大空襲5月29日』(有隣堂)は1945(昭和20)年5月29日、横浜を襲った米軍の空襲に関する研究であるが、ここには横浜が原子爆弾の投下候補地だった事実が述べられている。
 


今井清一氏 横浜大空襲研究の第一人者(画像提供:神奈川県文化課)


「第二回目標委員会は、五月十日にロスアラモス研究所のオッペンハイマー博士の事務所で開かれた。この会議ではスターンズ博士が、
1)直径三マイルをこえる大きな都市地域にある重要目標であること、
2)爆風によって効果的に破壊しうるものであること、
3)来る八月までに攻撃されないままでありそうなもの、
を要件として選んだ五つの目標を提示した。そして不測の状況が生じない限り、空軍がわれわれの供用のために留保してくれそうだと付言した。


この五目標とは、AA目標が京都と広島、A目標が横浜と小倉造兵廠で、B目標が新潟であった。横浜についてのコメントは次のとおりである。

  (3)横浜 この目標は、これまで手をふれていない重要な都市産業地域である。産業活動には、航空機製造、工作機械、ドック、電気機器、精油などがある。 東京の破壊が増大するにつれて、その他の産業も横浜に移動してきた。ここは、もっとも重要な目標地域が大きな水面によって隔離されていること、日本中で もっとも厳重な対空砲火集中地帯のなかにあること、この二つの欠点を持っている(後略)」
 


『新版 大空襲5月29日』


5月10日の時点で、横浜はこのように候補地の一つとして着目されていた。

この段階で原子爆弾はまだ未完成であり、米軍としては人類史上初めての実戦における原爆使用で被害がどれほどの規模になるのかを測定することが望まれてい た。そのために無傷の都市に投下する必要があり、まだ大規模な空襲を受けていなかった横浜もいわば“実験場”の一つとして挙げられたのである。

ただ、横浜は広島がAA目標のランク付けだったのに対してA目標であるというように、ほかの目標が悪天候だった場合に使用できる、という認識だったようだ。


原爆投下候補地に挙げられた横浜が逃れられたその理由とは!?・・・次のページ

原爆を免れ空襲に見舞われた

吉田守男『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』で、著者は原爆投下候補地となった都市は通常の空襲や爆撃は控えられ、無傷のまま保たれたという事実を紹介し、ひとたびその候補から外されると攻撃が加えられたと述べている。
 


『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』


「横浜が原爆投下目標から除外されたのは五月二八日の目標選定委員会であった。そして間髪を入れず、その翌日に爆撃されている。この五月二九日の爆撃こそ〈横浜大空襲〉と呼ばれるものであり、ただ一回のこの爆撃によって、旧横浜市全域がほぼ焼失させられたのである。(中略)

この横浜の例は、原爆投下目標と通常の空襲との関係をよく示している。それは、原爆目標とされている限り、通常の空襲をこうむることはないが、いったん目標から除外され〈爆撃禁止命令〉が解除されるや、たちまちにして大規模な空襲にみまわれるという現実である」
 


猛火に包まれた市街(画像提供:横浜市史資料室)
 

野毛の焼け跡風景(画像提供:横浜市史資料室)
 

罹災(りさい)後の元町商店街(画像提供:横浜市史資料室)


ここにあるように、5月28日に第3回目標委員会が開催され、この席で横浜は候補から除外された。

こうして横浜は原爆の惨禍を受ける運命から免れたが、その翌日に待っていたのは焼夷弾トン数において東京大空襲を上回る規模の空襲であった。推計8千人 (「横浜の空襲を記録する会」調べ)の犠牲者を生んだこの惨事は、原爆投下を免れた代償としてもたらされたものだったのだ。

しかしここに疑問が湧く──5月28日に候補地から脱落し、翌29日に大規模空襲。このあまりの早さには、何かあるのではないだろうか?



早い段階で横浜は除外された

「なぜ候補地から外された翌日、すぐに攻撃しなければならないんですか? そんな必要はないはずです。第一、そんなに早くあれだけの空襲ができるはずがありません」

こう語るのは横浜市立大学名誉教授の山極晃(やまぎわあきら)氏。
この人物こそ1979(昭和54)年、アメリカの国立公文書館マンハッタン計画の機密文書を解読し、そこに原爆投下候補地として横浜市が挙げられていることを発見したご本人である。
 


山極晃氏。横浜が原爆投下候補地だったことを発見した


「アメリカには最高機密文書でも30年が経過すれば自由に閲覧することができるという制度があります。それによってマンハッタン計画についての重要な部分を知ることができました」

山極氏の発見は新聞でも大きく報じられ、人々の注目を集めた。
 


神奈川新聞 1979(昭和54)年5月29日付け


「こ こで知っていただきたいのは、本土空襲を行うグループと、原爆製造・投下を推進するグループはまったくの別組織であったということです。マンハッタン計画 は当時完全な極秘プロジェクトで、知っている人は軍の中でもごくごくわずかに過ぎなかった。何しろ肝心の原子爆弾がまだ完成していませんから、現場への発 言力も大きくはありませんでした」

私たちは当時の米軍は一枚岩で固く結束していたように考えがちだが、それは誤りであると山極氏は指摘する。

「目標委員会は極秘のマンハッタン計画のそのまた一つの部署に過ぎなかった。たしかに現場に『特別な爆弾を試してみたいので○○への空襲を控えてほしい』 といった要請はしましたが、決して強く命令できる立場ではありませんでした。あまり強く主張すると“あいつら一体何なんだ? 何を企んでいるんだ?”と正 体がバレる危険性があったからです」
 


山極氏の編書『資料 マンハッタン計画


目標委員会の要請に拘束力などなく、横浜が空襲まで温存されたのは戦略爆撃部隊自身の予定に沿った結果に過ぎないと山極氏はいう。

日本本土を空襲するために組織されたのは第21爆撃機集団。司令官カーチス・ルメイだが、おそらくルメイは横浜を爆撃せず放置することに同意しなかったのではないかと、山極氏は推測する。
 


カーチス・ルメイ東京大空襲も指揮した


「横浜は当時の六大都市(東京・大阪・神戸・京都・名古屋・横浜)の一つだし、各種工場や重要な機関もあり、人口も多かった。爆撃機集団も自分たちの手で叩きたいと思っていたようです」

ここから推測できるのは、5月28日の目標会議を待たずして、横浜が原爆投下目標から除外されることが事実上、決まっていたのではないかということであ る。おそらく早期の段階から横浜空襲実施の方針を爆撃機集団側は頑として譲らず、目標委員会も認めざるを得なかったのではないかと想像される。


もしも横浜に原爆が投下されていたらどうなったのだろう・・・? 次のページ

もし横浜に原爆が投下されていたら

「横浜大空襲は史上初めての白昼堂々の大規模空襲だったんです。新しい方針の空襲をやるというのに、ろくに準備もしないなんて、私には考えられません」

横浜大空襲はB-29が517機、P-51が101機出撃し、2570トンもの焼夷弾を投下した空前の大規模攻撃であり、一昼夜にして準備を完了させるなど常識的にあり得ない。

おそらく何日にもわたる飛行機の用意や作戦の検討が必要だったはずで、それを考えると28日の目標会議より相当以前に、横浜への原爆投下の可能性は事実上消滅していたと思われるのだ。
 


B-29
 

P-51


「5月5日から15日の間に目標委員会側と爆撃機集団側が接触し、討議する機会があったと推測されます。おそらくこの席で、爆撃機集団側の横浜空襲の強い意図が伝達されたのでしょう」

種々の状況や事情があり得ようが、28日の目標会議での横浜除外、29日の横浜大空襲という成り行きには、何か尋常ならざるものがある。そこにはさまざまな個人間、集団間の思惑や駆け引きがあるようで、憶測を抑えがたい。

「当時、南西太平洋方面最高司令官だったマッカーサー元帥にすら、原爆投下計画は知らされておらず、彼がそれを知ったのは投下予定日から1週間を切った8月1日でした」

11月に本土上陸作戦を考えていたマッカーサーは激怒したという。フィリピンで日本軍に敗走した屈辱(“I shall return”のセリフは有名)をみずからの手で晴らすことを、彼は切望していたのである。原爆投下により、彼の思惑は破れた。
 


ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官として戦後日本を統治した


原爆の惨禍から横浜は逃れたが、もし投下されていたらどのような展開を得ただろう。
これに関して、「横浜の空襲を記録する会」の世話人である藤井あつし氏はいう。
 


藤井あつし氏。「横浜の空襲を記録する会」世話人


「も し横浜に原爆が投下されていたら・・・考えたくないけど、今の福島の現状を見ると、見捨てられたかもしれないと思いますね。広島と違って横浜なんかあって もなくてもいい。港の機能を東京にまかせれば、横浜には用がなくなる──こう考える権力者が出現したかもしれません。だから横浜がどうなったか、広島のよ うに復興したか、何ともいえません」

現役時代は市職員として横浜の行政に携わった藤井氏。歴史に「もし」はないが、その言葉はさまざまなことを想像させた。

歴史の一つの可能性だった横浜への原爆投下。しかし核攻撃を免れた代償が大空襲であったとは、あまりに酷い歴史の裏表であった。私たちの生命と運命は、遠い外国の会議室で決められるのか。核というものの恐ろしさを、日本人は身をもって世界に教える役割なのか。
横浜の繁栄の裏には、今日までさまざまな分岐点があったようである。
 


平和なみなとみらい。しかし、核は一瞬にして街を廃墟と化す




取材を終えて

「私は陸軍幼年学校の生徒でした」

山極氏はいう。純粋な軍国少年だった。
しかし敗戦。世は呆気なく民主主義礼讃となる。

無垢な16歳は“大人は信じられない”と思い詰め、日・米の戦争、戦後政策への関心を深めていった。
横浜市立大学教授時代にアメリカへわたり、国立公文書館マンハッタン計画の最高機密文書を眼にする。49歳だった。
 


 

発見を報じる当時の読売新聞


「アメリカには機密文書を含む公文書は国民のもの、という考え方があります。一方日本では公文書は政治家や公務員のもの、だから都合の悪いものはフタをしてしまえ、ということになりがちです」

特定秘密保護法に関しても、思うところをお聞かせいただいた。

唯一の被爆国、日本。
原爆投下の背後には、無数の知られざる歴史があるのだろう。
―終わり―
<参考文献>
今井清一『新版 大空襲5月29日』(有隣堂
吉田守男『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日新聞社
山極晃、立花誠逸編 岡田良之助訳『資料 マンハッタン計画』(大月書店)

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以上はまれぽ.comからの引用終わり。